大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和49年(ワ)3243号 判決

原告

郡ナツ

ほか五名

被告

医療法人行岡医学研究会

ほか三名

主文

一  被告日興乳業株式会社及び被告森本健三は各自、原告郡ナツに対し、金六六万八五〇〇円及びうち金六〇万八五〇〇円に対する昭和四七年八月二一日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を、原告郡功三、同郡武令、同郡嘉貞、同郡康次、同郡啓次それぞれに対し、金三五万三四〇〇円及びうち金三二万三四〇〇円に対する昭和四七年八月二一日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの被告日興乳業株式会社、同森本健三に対するその余の請求及び被告医療法人行岡医学研究会、同安田弘に対する請求を棄却する。

三  訴訟費用中、原告らと被告日興乳業株式会社、同森本健三との間に生じた分はこれを一〇分し、その七を原告らの負担とし、その余を同被告らの負担とし、原告らと被告医療法人行岡医学研究会、同安田弘との間に生じた分はすべて原告らの負担とする。

四  この判決は原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自、原告郡ナツ(以下姓を省略して原告ナツという。他の原告らについても同様とする。)に対し、二〇〇万三五六一円及びうち一七三万六八九五円に対する昭和四七年八月二一日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を、原告功三、同武令、同嘉貞、同康次、同啓次(以上五名の原告らを、原告ナツに対し、その余の原告らともいう。)それぞれに対し、一四〇万一四二四円及びうち一二九万四七五八円に対する前同日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二請求原因

一  交通事故の発生

1  日時 昭和四七年八月二〇日午前六時半頃

2  場所 大阪市北区南錦町一番地先路上

3  加害車 普通貨物自動車(大阪一一さ九八七四号)

右運転者 被告森本健三(以下被告森本という。)

4  被害者 訴外亡郡久吉(以下久吉という。)

5  態様 久吉が事故現場付近を散歩中、加害車が後退してきて同人の背中に衝突して同人を転倒させたうえ、後輪で同人の右足甲を轢過した。

二  受傷、死亡

久吉、前項の交通事故(以下本件事故という。)により右足甲挫滅創、右足及び右足指骨骨折等の傷害(以下本件傷害という。)を被つたため破傷風に罹患した結果、昭和四七年八月三〇日死亡した。

三  責任原因

1  被告日興乳業株式会社(以下被告会社という。)

運行供用者責任(自賠法三条)

被告会社は、牛乳、乳製品の生産処理販売を目的とする会社であるところ、右目的のため加害車を保有し、自己のため運行の用に供していた。

2  被告森本

一般不法行為責任(民法七〇九条)

被告森本は、加害車を運転中、後方不注意、後退不適当の過失により本件事故を惹起した。

3  被告医療法人行岡医学研究会(以下被告行岡医研と略称する。)

債務不履行責任(民法四一五条。第一次的主張)及び使用者責任(民法七一五条一項。第二次的主張)

(一) 被告行岡医研は、行岡病院を経営し、同病院において医医師被告安田弘(以下被告安田という。)、同病院院長・副院長ら(以上の三者らを以下被告安田らという。)を雇用していたものであるところ、久吉は、本件事故当日午前七時半頃被告行岡医研との間で本件傷害に関する診療契約を締結して右行岡病院に入院し、同病院において被告安町が右久吉の担当医となり、被告安田らが被告行岡医研の業務の執行として久吉の診療に当たつた。

(二) 被告行岡医研は、右診療契約上、イ傷害の観察、状況の聴取と一般的考察、検査、ロ診断、ハこれらの判断に基づく当面の処置、症状の監視と異変に対する適切な対応、ニ根本的治療手段の考察と実施等の債務を負担していたものであるところ、被告安田らは医師として通常の注意をもつてすれば本件傷害の治療当初、久吉に破傷風罹患のおそれのあることがわかりえたのに、更に、久吉の破傷風の症状からその罹患を看取しえたのに、不注意により次のとおり久吉の治療当初傷害部位の開放等適切な処置をとらず、更に、破傷風の罹患を看過し、ひいてその治療をしなかつた過失により久吉を破傷風で昭和四七年八月三〇日死亡させ、もつて右債務の履行を怠つた。すなわち、

久吉の本件傷害は、牧場などにも出入りする加害車によつて素足のところを轢過されたため生じたもので、いわゆる「きたない傷」であつたのであるから、被告安田らは、破傷風の危険を考慮して傷害部を開放的に処置すると同時に感染後二四時間以内に免疫血清(沈降破傷風トキソイド)の予防注射を施す等の適切な処置をとるべきであつたのに、直ちに挫傷部分を縫合してしまい、他に格別の処置をしなかつた。更に、久吉は、入院後四日目の八月二四日から破傷風の疑いがある症状を呈しはじめ、同月二九日朝からは開口障害、痙攣、筋肉の強直等の破傷風の典型的症状が激化していつたのであるから、被告安田らは、右症状の推移に対応して抗体の注射をするなど破傷風に対する適切な処置をとるべきであつたのに、全く右処置をとらないまま、同月三〇日久吉を破傷風により死亡させたのである。

4  被告安田

一般不法行為責任(民法七〇九条)

被告安田は、行岡病院の医師で、久吉の担当医として同人の被つた本件傷害の診療に当たつていたところ、前記のとおり医師として通常の注意をもつてすれば本件傷害の治療当初久吉に破傷風罹患のおそれのあることがわかりえたのに、更に、久吉の破傷風の症状からその罹患を看取しえたのに、不注意により久吉の治療を当初傷害部位の開放等適切な処置をとらず、更に破傷風の罹患を看過し、ひいてその治療をしなかつた過失により久吉を破傷風で昭和四七年八月三〇日死亡させた。

四  損害

1  治療経過

久吉は、本件傷害のため本件事故当日から昭和四七年八月三〇日まで行岡病院に入院した。

2  久吉の損害額

(一) 入院雑費 一万八八〇〇円

(二) 死亡による逸失利益 六五万四三五〇円

久吉は、本件事故当時七七歳であつたところ、本件事故がなければ七七歳から八〇歳まで三・一年間就労が可能であり、その間少なくとも一ケ月三万〇六〇〇円の男子平均賃金相当額の収入を得ることができ、同人の生活費は一ケ月一万五三〇〇円と考えられるから、同人の死亡による逸失利益を年別ホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、六五万四三五〇円となる。

(三) 慰藉料 一〇〇万円

3  原告ら固有の損害額

(一) 葬祭費 原告ナツ一七万九一八〇円、その余の原告ら各七万一六七一円(以上合計五三万七五三五円)

(二) 慰藉料 原告ら各一〇〇万円

(三) 弁護士費用 原告ナツ二六万六六六六円、その余の原告ら各一〇万六六六六円

五  相続

原告ナツは久吉の妻、その余の原告らはいずれも久吉の子であつて、他に同人の相続人たるべき者は存しないところ、久吉の死亡により、同人の被告らに対する前記損害賠償請求権につき法定相続分に応じ原告ナツにおいて三分の一、その余の原告らにおいて各一五分の二宛相続により取得した。

六  本訴請求

よつて、請求の趣旨記載のとおりの判決(遅延損害金は民法所定の年五分の割合による。ただし、弁護士費用相当の損害金に対する遅延損害金は請求しない。)を求める。

第三請求原因に対する被告らの答弁

一  被告会社及び被告森本

1  請求原因一の1ないし4の事実は認め、5の事実は不知。

2  同二のうち久吉が原告ら主張の日に死亡したことは認めるが、その余の事実中久吉が本件事故により破傷風に罹患したこと及び同人が死亡したのは本件事故により破傷風に罹患した結果であるとの点は否認し、その余の事実は不知。

久吉の死亡は、本件事故によるものではなく、動脈硬化性心疾患(腎性高血圧を伴なう。)による急性心不全がその死因である。

3  同三の1の事実は認める。

4  同三の2のうち過失の点は否認し、その余の事実は認める。

5  同四の事実は不知。

6  同五の事実も不知。

二  被告行岡医研及び被告安田

1  請求原因一の事実は不知。

2  同二のうち久吉が本件傷害を被つたこと及び同人が原告ら主張の日に死亡したことは認め、本件傷害が本件事故によるものであることは不知、久吉が破傷風に罹患し、かつそれが同人の死因であることは否認する。

久吉は、破傷風に罹患したことはなく、同人の死因は動脈硬化性心疾患による急性心不全である。

3  同三3(一)のうち被告行岡医研が行岡病院を経営し、同病院において医師被告安田らを雇用していたこと、久吉が行岡病院に入院し、同病院において被告安田が久吉の診療に当たつたことは認める。

4  同三3(二)のうち久吉の本件傷害が牧場などに出入りする加害車によつて素足のところを轢過されたため生じたことは不知、同人が昭和四七年八月三〇日死亡したことは認め、診療契約上の債務負担の点を除くその余の事実は否認する。

5  同三4のうち被告安田が、行岡病院の医師で、久吉の担当医として同人の被つた本件傷害の診療に当たつたこと、久吉が昭和四七年八月三〇日死亡したことは認めるが、その余の事実は否認する。

6  同四1のうち久吉が行岡病院に入院したことは認める。

7  同四の2、3の事実は否認する。

8  同五の事実は不知。

第四証拠関係〔略〕

理由

第一交通事故の発生

その方式、趣旨によつて公文書と推定すべき甲第五号証の二ないし四、同号証の一〇(ただし、以上の甲号各証の成立は原告らと被告会社、被告行岡医研、被告安田との間において争いがない。)、被告森本本人尋問の結果によると、昭和四七年八月二〇日午前六時半頃被告森本は、大阪市北区南錦町一番地先道路上に西向きに駐車させた普通貨物自動車(大阪一一さ九八七四号。加害車。)を運転して西から東に向かつて後退ブザーを鳴らしながら(後退の際は自動的に鳴る。)後退中、折柄同車後方を西から東に散歩中の久吉の後背部に同車後部を衝突させて同人を転倒させたうえ、同人の右足甲を同車右後輪で轢過したことを認めることができる(ただし、右日時、場所で、被告森本の運転する加害車及び久吉間に交通事故が発生したこと自体は、原告らと被告会社、被告森本との間に争いがない。)。

第二受傷、死亡

一  前掲甲第五号証の三、弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第五号証の七、八(ただし、原告らと被告会社、被告行岡医研、被告安田との間において成立に争いがない。)、丙第一号証(ただし、原告らと被告会社との間において成立に争いがない。)によると、久吉は本件事故により右足甲挫滅創、右第二ないし第五中足骨開放性骨折、右第一、第二末節骨開放性骨折(これらを以下本件傷害という。)を被り、昭和四七年八月三〇日死亡したことが認められる(ただし、久吉が右足甲挫滅創、右足及び右足指骨骨折等の傷害を被つたことは原告らと被告行岡医研、被告安田との間に争いがなく、同人が昭和四七年八月三〇日に死亡したことは原告らと被告らとの間に争いがない。)。

二  そこで、久吉の死因について判断する。

1  前掲甲第五号証の七、八、その方式、趣旨によつて公文書と推定すべき甲第三号証の一、二、第五号証の六、第七号証の一、証人河村禎視の証言によつて被写体である診療記録の成立を認める甲第七号証の二ないし二七(ただし、右甲第三号証の一、二、第五号証の六、第七号証の一ないし二七の成立は原告らと被告会社、被告行岡医研、被告安田との間において争いがない。)、同証言によつて成立を認める乙第一号証の二、弁論の全趣旨により原本の存在とその成立を認める乙第二、第三号証、弁論の全趣旨によつて成立を認める乙第一号証の一(ただし、原告らと被告行岡医研、被告安田との間において成立に争いがない。)、証人河村禎視の証言、原告ナツ、同武令各本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 久吉は、明治二九年二月一七日に出生した者(本件事故当時満七六歳)で、生前動脈硬化症の持病を有していたものであるところ、昭和四四年頃勤務先である自己の息子原告嘉貞が経営する郡雪気を退き、その後は本件事故当時に至るまでいわゆる隠居の身として、稼働していなかつたものであり、また右久吉は昭和四七年正月頃風邪をこじらせた際心臓が衰弱している旨の医師の診断を受けたり、同年二月下旬頃肺炎を煩つて約二〇日間入院したりなどしたことがあり、本件事故当時は毎週一回位医師のもとに通つて動脈硬化症の薬を調合して貰い、これを服用していたが、早朝の散歩を日課にするなど比較的元気に生活していた。

(二) 久吉は、本件事故による受傷後直ちに行岡病院に担送され、死亡時まで同病院に入院し、その間同病院医師被告安田が久吉の担当医になつた(久吉が同病院に入院し、同病院医師被告安田が久吉の診療に当たつたことは原告らと被告行岡医研及び被告安田との間に争いがない。)が、右入院後死亡に至るまでの同病院における治療内容、久吉の病状の推移は概略次のとおりである。

(1) 本件事故当日(八月二〇日)行岡病院では創口を洗浄清拭したうえ、局部麻酔により、右拇趾の爪部を剥離して動脈出血のないことを確認し、かつ右足甲挫滅部につき挫滅のため縫合困難な部分を除いて二三針縫合し、また同日から翌二一日まで本件傷害部分を副子固定した。

(2) 二一日から二八日の日中までの久吉の容態は、後述の脈搏、体温の点を除くと、外見上異常な症状はみられなかつた。

(3) しかし、二八日夜間に至り突然多量の発汗があり、かつ排尿困難を来たし、翌二九日朝は顔色が悪かつたので、妻である原告ナツは久吉の容態を心配して急遽子供らを行岡病院に招集した。その後同日昼頃迄久吉の発汗は続き、食欲も不振で、口数も少なくなり、また同日午後一時頃行岡病院副院長である訴外河村禎視が診療した際には既に本件傷害部分の一部が壊死状に陥つていた。しかし、その際久吉の最大血圧は一六〇と上昇していたものの、他に格別容態の異常は認められなかつたので、同副院長は同日午後二時頃から同三時頃までの間久吉の子である原告武令及び同康次から久吉の容態につき説明を求められたのに対し、「右壊死状部分について植皮術を施す必要がある。尿の反応を明日もう一度見る。久吉の全身状態については特に異常はない」旨の所見を述べた。

(4) その後久吉は時折息苦しさを訴え、発語も不十分となり、同日午後五時四〇分頃にはガーゼに浸した牛乳すら嚥下困難となり、看護婦に対し、「咽が締めつけられるような感じがして少し息苦しい」旨訴えた。そして、当夜は夜通し息苦しさを訴え、口腔内に泡抹状、緑黄色の痰が溜まり喀出困難であつたので、看護婦が器具で吸引したことなどがあり、また当直医が呼吸不全に対する呼吸筋の賦活剤(アタラツクスP五〇ミリグラム)及び破傷風トキソイド〇・五ccの注射を施したこともあつた。

(5) かくして、久吉は三〇日午前六時頃危篤状態に陥り、マツサージ、人工呼吸等の救急処置を受けたが、その甲斐もなく、遂に同日午前六時五〇分頃死亡するに至つた。

(6) 血圧、脈搏、体温について。

イ 血圧について。

前記二〇日の手術前は最大一九六ミリメートル水銀(以下単位は省略する。)、最小一四〇であつたが、手術中徐々に低下し、手術後には最大一一〇ないし一三四、最小七〇ないし一〇八となつた。しかし、二九日午後一時頃には最大一六〇、最小一〇〇、同日午後五時四〇分頃には最大一八〇、最小九〇、翌三〇日午前二時四〇分頃には最大一七〇、最小一〇〇と最大値が上昇したが、死亡直前の午前六時二五分頃最大八〇、最小六〇と著しく下降した。

ロ 脈搏について。

前記二〇日の手術中は一分間に一〇二ないし九六(以下脈搏数を述べるときは一分間当たりの数である。)で、結代もみられたが、手術後は八四程度に一定した。しかし、翌二一日には一一四と速くなり、二二日以降死亡直前までは一〇八から四〇までの間を上下し、一定しなかつた。なお、二九日午後五時頃には九六で、一分間に六回結代し、翌三〇日午前二時四〇分頃には七二であつた。

ハ 体温について。

二一日は摂氏三八度(以下体温の単位は摂氏である。)あつたが、翌二二日以降死亡直前までは三六・九度から三五・六度の間を上下し、一定しなかつた。

(7) 行岡病院においては、久吉に対し、前述のとおり八月二九日夜の当直医が施した以外に破傷風トキソイドの注射をしたことはなく、また破傷風が発病した場合に通常施される抗毒素血清の注射並びに抗痙攣剤投与等の対症療法その他の治療もしていない。

(三) 死亡当日午後二時頃から同三時頃までの間、大阪府死因調査事務所長である医師(主任監察医)訴外吉村昌雄によつて久吉の死体解剖がなされ、萎縮腎、動脈硬化著明、左心室肥大、心筋褐色変性等のほか右足甲挫滅部分につき表皮が黒変して壊死化し、内部の軟部組織が挫滅状であることなどが判明したところ、同医師は病理学的検査の結果久吉には生前腎性高血圧を伴う慢性の動脈硬化性心疾患があつたことを認め、かつ細菌学的検査の結果破傷風菌(グラム陽性の桿菌)等有害菌を検出しなかつたので(ただし、破傷風菌の検査は創傷分泌液の塗抹標本を用いた。)、以上の事情等を考慮して本件死因は右の心疾患による急性心不全であると判断した。

以上の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

2  ところで、原告らは、久吉が破傷風に罹患した旨主張する。しかしながら、成立に争いがない甲第八号証によると、破傷風菌の外傷部位からの検出率は拠ね三分の一程度であることが認められ、必ずしも高率とはいい難いとはいえ、前述のとおり久吉の場合には創傷部分から破傷風菌は検出されなかつたものであり、また、同甲号証、証人河村禎視の証言によると、破傷風に罹患して死亡する場合には、通常まで第一期(潜伏期)に、受傷後数日たつて、名状し難い身体違和感、全身疲労感、肩・首の張り、胸・背痛などの前駆症状が現われ、次いで第二期に、開口障害が出現するとともに発語、嚥下障害を生じ、四肢・首・胸・腹筋の緊張も高まり、いわゆる破傷風顔貌を呈し、更に第三期には、四肢あるいは躯幹の強直様発作が始まり、次いで二、三〇分ないし二、三分置きに激痛を伴う全身性の強直性痙攣が起こり、その間数秒呼吸も停止し、脈搏は一四〇ないし一五〇を超え、開口障害は極度になつて全く歯列が開かず、嚥下困難であるうえに気道内分泌物増加及び喉頭痙攣のため痰の喀出不能を来たし、ますます呼吸困難となり、排尿排便も困難で、体温は三八度台より日を追つて上昇する等の激烈な症状を呈するが、死亡例のほとんど(約九五パーセント)は右第三期に死亡すること、破傷風の症状には以上のほか発汗などもみられるが、右症状のうち全身筋肉の強直、開口障害、全身性痙攣の三者(これらを以下筋肉の強直等という。)を兼有する疾患は破傷風以外に少ないので、筋肉の強直等の有無が破傷風の罹患を鑑別する有力な手掛かりとなることを認めることができるところ、前項(二)に認定した久吉の症状の推移に徴すれば、久吉の場合には前述の破傷風の前駆症状を思わせる症状に乏しいうえ、発語・嚥下・痰の喀出・呼吸・排尿困難、発汗等はみられたものの、脈搏は二一日の一一四が最高で、それ以外は最も速くて一〇八程度であるし、体温も二一日の三八度以外には三五、六度台に止まつていたものであり、しかも破傷風特有の激烈な症状である筋肉の強直等を呈していたことまでは次に説示するとおり認められないから、以上の事情を総合して勘案すると、久吉が破傷風に罹患したと認めることはできないものといわざるをえず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。すなわち、前掲甲第六号証、原告ナツ及び同武令各本人尋問の結果中には、二九日昼頃から破傷風を思わせる痙攣、口の周りの筋肉の硬直が始まり、その後痙攣、筋肉の硬直が首、胸、全身に及んだ旨の記載、供述部分が存するけれども、右原告ら各本人尋問の結果によれば、これらはいずれも久吉の親族(医師ではない)らが目撃したとして記載(久吉葬儀の三日位後)ないし供述されたものであることが認められるところ、前掲甲第七号証の一ないし二七によれば、かかる症状の存在した事実は行岡病院の診療録及び看護日誌に何ら記載されていないことが明らかであるのみならず、前述のとおり破傷風が発病した場合に通常施される治療は同病院においては全くなされなかつたのであり、また二九日午後一時頃河村副院長が久吉を診察した際には何らかかる異常は認められなかつたことも前述のとおりであり、しかも右診察後の午後二時頃から同三時頃までの間同副院長が原告武令らに対し久吉の容態について説明した際、同原告らは何ら筋肉の強直等に関する訴えないし質問をしなかつたことが証人河村禎視の証言、原告武令本人尋問の結果によつて認められ、また同証人の証言によると、心疾患による循環不全の場合にも発語不全、痰の喀出困難等の症状を来たすところ、かかる患者を素人目で見た場合、口の周りに痙攣ないし硬直があるものと誤認する虞も考えられることが認められ、以上の諸事情に照らして考えると、二九日昼頃から破傷風の典型的な症状である筋肉の強直等がみられたとはたやすく認めることはできない。なお、先に認定した二九日夜の当直医が久吉に破傷風トキソイドの注射を施した点についてであるが、前掲甲第八号証、証人河村禎視の証言によると破傷風トキソイドは破傷風の予防のためには効果的であるが破傷風発病後には効果がなく、この場合には抗毒素血清の注射を施すべきであることが認められるから、仮に当時破傷風特有の筋肉の強直等の症状があつたとするならば、右当直医は抗毒素血清の注射により毒素の中和をはかる筈であつたということができ、従つて、右抗毒素血清ではなくトキソイドの接種をしたことからは却つて未だ右症状は顕われていなかつたものといいえても、反対に右症状があつたものと解することは到底できないものというべきである。以上の諸点に前項認定の各事実を合わせ考慮すると、久吉が二九日昼頃から死亡までの間、肉親の情として見るに忍びない程強い呼吸困難症状を呈したことは認められるが、それとは別に破傷風特有の激烈な症状である筋肉の強直等を呈したことまでを認めるには多分の躊躇を禁じえないから、結局前記各記載、供述部分はたやすく採用し難いものといわざるをえず、他に右筋肉の強直等の症状があつたことを認めるに足りる証拠はない。

3  前述来の認定説示した事情に一般に指摘される心筋変成、高血圧症等の急性心不全の原因、呼吸困難、胸内苦悶、頻脈、顔面蒼白、発汗等の急性心不全の症状等を合わせ考えると、かえつて久吉の直接の死因は、前述の吉村医師の診断のとおり久吉が生前有していた腎性高血圧を伴う慢性の動脈硬化性心疾患を基盤として発生した急性心不全にあると認めるのが相当であり、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、前掲甲第五号証の八、乙第一号証の一、二によると、久吉のような慢性心疾患を有する者が足部挫滅創の傷害を被つた場合には、これに伴う疼痛、不安、歩行障害等が心機能に及ぼす影響は少なくないことが認められ、これに久吉の年齢、同人の前記心疾患の内容、程度、本件事故前における久吉の生活状況、本件傷害の内容、程度、本件傷害のため久吉が一一日間入院し、その間局部麻酔による挫滅創部分の縫合等の手術を受けることを余儀なくされたこと、本件挫滅創部分が黒変して壊死化したことなどの入院中における久吉の諸症状等を合わせ考慮すると、久吉は本件事故に基づき本件傷害を被つたことにより相当程度の精神的肉体的打撃を受け、このため、前述の心疾患を増悪させられ、急性心不全によつて死の転帰をとつたものと認めるのが相当であるから、本件事故と久吉の死亡との間に相当因果関係があるものと解すべきであり、甲第五号証の八、乙第一号証の二のその余の部分、証人河村禎視の証言の一部によつても右認定を左右するに足りず、他に右認定に反する証拠はない。もつとも、後述の本件事故による死亡に基づく損害額の算定にあたつては、久吉の死亡に対する久吉の前記心疾患と本件事故の各寄与率は、前記諸事情を考慮して前者が六割、後者が四割と認め、死亡に基づく全損害額の四割を計上するのが相当である。

第三責任原因

一  被告会社

請求原因三1の事実は当事者間に争いがないから、被告会社は自賠法三条により本件事故による久吉及び原告ら(原告ナツは久吉の妻、その余の原告らは久吉の子であることはのちに述べるとおりである。)の損害を賠償すべき責任がある。

二  被告森本

請求原因三2の事実は過失の点を除き当事者間に争いがないところ、前掲甲第五号証の二ないし四、同号証の一〇、被告森本本人尋問の結果によると、同被告は前述のとおり道路上に西向きに駐車させた加害車を運転して西から東に向かつて後退しようとした際、加害車はアルミ板型冷凍車で、車体の後方が死角になつていたため、後方の安全を確認することが非常に困難な状況であつたから、誘導者の誘導を得るなど安全のための格別の配慮をして後退するか、同所は転回可能であるから転回する等の方法を講ずべき注意義務があるのにこれを怠り、同車運転席側の窓から顔を出して右後方をみたものの同車後方の見通しが困難なまま漫然時速約一〇キロメートルで約二五メートル後退した過失により本件事故を惹起したことを認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。そうすると、被告森本は民法七〇九条により本件事故による久吉及び原告らの損害を賠償すべき責任がある。

三  被告行岡医研及び被告安田

前述のとおり久吉が破傷風に罹患したことは認められない以上、同人右罹患を前提とする原告らの被告行岡医研に関する債務不履行責任及び使用者責任の主張並びに被告安田に関する一般不法行為責任の主張はいずれもその前提を欠き、爾余の諸点を判断するまでもなく、失当であるから、同被告らに右のいずれの責任も認められない。

第四損害

一  治療経過

久吉が本件傷害のため本件事故当日から昭和四七年八月三〇日まで行岡病院に入院したことは前認定のとおりである。

二  久吉の損害額

1  入院雑費 五五〇〇円

経験則上久吉は右入院期間一一日中、一日少なくとも五〇〇円の割合による合計五五〇〇円の入院雑費を要したことが認められ、右金額を超える分についてはこれを認めるに足りる証拠はない。

2  死亡による逸失利益

前記第二、二1の(一)に認定した久吉の本件事故当時における年齢、本件事故前の稼働状況及び健康状態に徴すれば、久吉が受傷及び死亡したことにより逸失すべき収入の減少は認められず、他にこれを認めるに足りる証拠はない(なお、前掲甲第五号証の六によれば、久吉は前述の郡電気を退職した後も同店に出向いたこともあつたことが窺われるが、この点は後記慰藉料額の算定に際して考慮しうべき諸般の事情の一つとみるのが相当である。)。

3  慰藉料 五〇万円

本件事故の態様、久吉の傷害の部位、程度、治療の経過、死亡、年齢、本訴において久吉の相続人である原告らが久吉の慰藉料のほかに原告ら固有の慰藉料を求めていること、本件事故の死亡に対する寄与率が四割であることその他諸般の事情を考慮すると、久吉の慰藉料額は五〇万円とするのが相当である。

三  原告ら固有の損害額

1  葬祭費 原告ナツ四万円、その余の原告ら各一万六〇〇〇円

原告武令本人尋問の結果に弁論の全趣旨及び経験則を合わせ考えると、久吉の妻子である原告らは久吉の死亡に際し葬祭を挙行し、葬祭費として少なくとも三〇万円を要したこと、原告らは右葬祭費につき後述する相続分に応じ、原告ナツにおいて三分の一に相当する一〇万円を、その余の原告らにおいて各一五分の二に相当する四万円宛をそれぞれ負担したことを認めることができ、右金額を超える部分についてはこれを認めるに足りる証拠がない。よつて、本件事故の死亡に対する寄与率が四割であることを考慮すると、原告ナツの葬祭費相当の損害額は四万円、その余の原告らのそれは各一万六〇〇〇円となる。

2  慰藉料 原告ナツ四〇万円、その余の原告ら各二四万円

前掲甲第三号証の一、二、第五号証の三、同号証の六によると、原告ナツは久吉の妻、その余の原告らは久吉の子であり(原告ナツ、同武令、同嘉貞、同康次については前述した。)、本件事故当時右子らはいずれも親元から独立して世帯を持ち、久吉と原告ナツとが二人暮らしをしていたことが認められ、右認定事実に本件事故の態様、結果(久吉の死亡)、久吉の年齢、本訴において原告らは久吉の慰藉料分も請求していることその他諸般の事情を考慮すると、原告ナツの慰藉料額は一〇〇万円、その余の原告らのそれは各六〇万円とするのが相当であるところ、本件事故の死亡に対する寄与率は四割であるから、原告ナツにつき四〇万円、その余の原告らにつき各二四万円と算定すべきである。

四  過失相殺

なお、前認定の本件事故の態様、ことに被告森本の過失の内容、程度、その他久吉の年齢等諸般の事情に徴すれば、本件事故の発生について原告ら側に過失相殺するのを相当とすべき過失は認められない。

第五相続

原告ナツが久吉の妻、その余の原告らがいずれも久吉の子であることは前認定のとおりであり、前掲甲第三号証の一、二及び弁論の全趣旨によると、他に久吉の相続人たるべき者は存しないことが認められ、右事実によれば、久吉の死亡により同人の被告会社及び被告森本に対する前記損害賠償請求権につき法定相続分に応じ、原告ナツにおいて三分の一、その余の原告らにおいて各一五分の二宛相続により取得したものというべきである。

そうすると、右被告らが支払うべき損害額は、原告ナツに対し六〇万八五〇〇円(相続分の一六万八五〇〇円と固有分四四万円との合計)、その余の原告らに対し各三二万三四〇〇円(相続分六万七四〇〇円と固有分二五万六〇〇〇円との合計)となる。

第六弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、被告会社及び被告森本に対して本件事故による損害として賠償を求めうる弁護士費用の額は、原告ナツにおいて六万円、その余の原告らにおいて各三万円とするのが相当であると認められる。

第七結論

よつて、被告会社及び被告森本は各自、原告ナツに対し六六万八五〇〇円及びうち弁護士費用相当の損害金を除く六〇万八五〇〇円に対する本件事故発生の後である昭和四七年八月二一日以降完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、その余の原告らに対し各三五万三四〇〇円及びうち弁護士費用相当の損害金を除く三二万三四〇〇円に対する前同日以降完済に至るまで前同割合による遅延損害金をそれぞれ支払う義務があり、原告らの右被告らに対する本訴請求は右の限度で理由があるから、これを認容し、右被告らに対するその余の請求並びに被告行岡医研及び被告安田に対する請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 鈴木弘 大田黒昔生 内藤紘二)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例